日本では昔から常識だったBL(男色)の歴史

「男色」は長い歴史を持つ日本の伝統!?

「男色」とは男性同士の性愛(男性同性愛)を指す言葉です。

現在でこそ「LGBTの権利を認めよう」「同性同士の結婚を認めよう」といった運動が盛んになり、男性同士の恋愛も受け入れられるようになってきました。

男性同士の恋愛を描いた漫画や小説も「BL(ボーイズラブ)」と呼ばれ、書店によっては棚の一角を占める「売れ筋商品」として扱われていることもあります。

 

……このような書き方をすると「BLと現実(リアル)のゲイは違う!」とのご意見をいただくかもしれません。

実際に、BL好きの女性から「私が好きなのはBLであって、本物のゲイではない」と宣言された経験がありますので。

 

この話を始めるとテーマがずれてしまうので、話を元に戻しますと。

現在になってようやく「男色」は認められるようになってきた、という印象があります。

しかし、実際には日本では昔から「男色」が存在し、そしてそれはごく当然のこととして、一般に受け入れられていたのです。

かつて、日本のお寺は「男色パラダイス」だった!?

今は違いますが、かつてお坊さんは女性と関係を持つことを禁止されていました。

SEXはもちろん、触るだけでもアウトです。

そういう決まり(戒律)があったので、仕方がないのです。

 

仏の道を邁進する立派なお坊さんであれば、エッチなことがしたい、などという煩悩に悩まされることはない……。

そう言いたいところですが、お坊さんも人の子、我慢できない時もあります。

そのため、お寺には「稚児(ちご)」と呼ばれる少年がいて、お坊さんの「お相手」を勤めていました。

「女性とSEXしてはいけない」という戒律はありますが「男性とSEXしてはいけない」という戒律はないのでOKなのです。

 

そんなわけで、日本では昔から多くのお坊さんが男色に親しんでいたわけですが、その中でも宗性(そうしょう・1202年~1278年)というお坊さんがいます。

宗性は13歳で出家して東大寺に入り、キャリアを積み重ねて出世していったエリートお坊さんです。

その宗性が36歳の時に書いた資料にこのような一文があります。

 

『現在までで95人である。男を犯すこと百人以上は、淫欲を行うべきでないこと。』

 

つまり「今までに95人の稚児と男色関係を行ったが、百人以上はヤリ過ぎなのでこれ以上は止めときます」と言っているのです。

95人だってヤリ過ぎだと思いますが。

 

さらに宗性はこんなことも書いています。

 

『亀王丸以外に、愛童をつくらないこと。』

 

つまり「今後は亀王丸(稚児の名前)一筋にするよ!」と言っているのです。

ダメだこいつ、まったく成長していない……。

 

こんなお坊さんでも立派に出世していったのですから、お坊さんと男色は当然のもの、として受け入れられていた、ということが分かりますね。

生死をかける戦場での絆! 戦国武将と「衆道」の世界

戦国武将の間でも男色は盛んに行われていた、という事実も、今や常識となりつつあります。

武士の世界では男色は「衆道」と呼ばれていました。

 

有名なところでは、織田信長と前田利家&森蘭丸、徳川家康と井伊直正、伊達政宗と片倉小十郎……。

男色に興味がなかったのは、豊臣秀吉くらいだと言われております。

秀吉の場合は、正妻の他に側室が20人以上、それ以外にも手当たり次第に女性に手を出していたという「超女好き」ですから、男に手を出す必要がなかったのかもしれませんが。

 

男色趣味がはっきり、文献として後世に伝わってしまっているのが「風林火山」で有名な武田信玄です。

信玄は20代の頃、男色相手だった春日源助に浮気を疑われ、慌てて「詫び状」を送っています。

その「詫び状」の内容とは……。

 

『源助は僕が他の男に手を出したと疑っているけど、そんなことはないよ!』(意訳)

 

という、猛将・武田信玄のイメージとはかけ離れた情けないもの。

 

『確かに浮気心は起こったけど、手は出してないから! 僕は潔白だよ!』(意訳)

 

とまで書いています。

「浮気心は起こった」と素直に書いているところに、信玄の素直さというか、惚れた相手に対する後ろめたさが表れていますね。

 

ちなみに信玄のライバルとして知られる上杉謙信。

他の戦国武将は男色を楽しみつつも妻を娶っていますが、謙信は生涯、側室どころか正妻すら持たず、そのため「謙信は女性だった!」という説が流れるほどの堅物です。

そんな謙信も、男色には興味があったらしく、酒好きの謙信が毎晩のように催す宴会には美しい若者がたくさん集められていた、とのことです。

 

秀吉とは正反対に、謙信は女性が近付くのもイヤ、という「ガチの男好き」だったのかもしれません。

単なる「女性の代わり」ではない、奥深い男色の世界

お坊さんや戦国武将の間で男色が盛んだったのは、それぞれ「お寺」や「戦場」という女人禁制の場所に身を置いており、女性の代わりとなる性欲処理の相手が必要だったため、という背景があります。

特に戦国武将の場合は、主君に抱かれることによって出世の道が開けたり、戦場で生死を共にする「男同士の絆」を深めるための手段として男色が行われていたりもします。

 

しかし、そういった一種の義務的な関係ばかりだった、とは言い切れません。

宗性のような「男色ヤリチン」は明らかに好きで男色を行っていますし、信玄の熱烈な「詫び状」を読めばそこに恋愛感情が存在していることは明白です。

性癖は人それぞれであり、そしてそれは決して世間に対して隠すようなものでなかった、ということでしょう。

 

「日本人は性におおらかだ」と言われますが、このような歴史を持っている日本人が性におおらかになるのは、ごく当然のことなのかもしれません。