母と娘の関係。女子にしかわかり得ない世界観と性をゆったりと紡ぐ紗倉まな短編小説『ははばなれ』(2019年「群像」12月号発表)

小説家・紗倉まなはAV女優・紗倉まなと違う世界を構築する

映画にもなった『最低。』からスタートした紗倉まなちゃんの小説家としてのキャリア。世間的な色眼鏡をまともに浴びてしまう「AV女優」というキャリアとは別の並行世界を作るほど、面白くなおかつ文芸作品として成立しているのですが、みなさんは読んだことがあるでしょうか。

 

小説が好きという人は、月に10冊以上、単行本ベースを平気で読んでしまいます。文庫化が待てないくらい。とはいえ、リアルな読書する層ですら、好きな作家の新作が出たら必ず読むくらいの人がほとんどでしょう。

 

小説は読まない人はおろか、マンガだって読まないと言い切る人もいます。ネットニュースだって読まない人もいる。時代の変遷ではなくて、動画がメインとなれば、情報を自分に流入する方法は、聖人君子だろうが、楽なほうを選ぶのです。

 

可愛らしい容姿(最近は本人曰く「ロリババア」笑)と、憑依的な反応のギャップ。それ以上に魅力的な存在感を誇り、AV業界の必須アイテムとして君臨する紗倉まなちゃん。

 

AV女優として、デビュー以来、ナンバー1の位置に存在し続けている紗倉まなちゃんですが、だからこそ、小説家になれたのかもしれないけれど、作家デビューしてからの世の中からの圧も凄かったはずです。

 

世評を軽やかにクリアして(しているように見せているだけかもしれない)、作家としてのキャリアを伸ばし続け、新作を発表するまなちゃん。世間の見方を自力で変えていったAV女優としては希有の存在です。

 

今もっとも敏感に対応する女子へのハラスメントネタを語られる際に、1番遡上にあがりがちなAV女優。いわば糾弾されたり同情されたりする先頭です。にもかかわらず、まなちゃんは、スーッとクリアしているようにすら見えるほど、AVと世間のかい離する部分を繋ぐミッシングリンク。

 

インテリ風女子をまるで感じさせない(高専出身ということはそれなり以上に能力があることをお忘れなく)可愛らしい笑顔のまなちゃん。筆者とAV仕事の中で会っているけれど、昔から何ひとつ変わらないトーンで応対してくれます。丁寧語同士の会話の距離感がとても心地いいです。長い時間しゃべる機会はすっかりありませんが、理性と冷静さと熱さという二律背反な会話の面白さを楽しめるのです。

 

AV作品で見せるエキセントリックなキャラクター(まなちゃんは意外と多い)とは対極にいるかのような、ごく普通の女子の感覚があるからこそAV女優と小説家が同居できているのかもしれません。

作家・紗倉まなとAV女優・紗倉まなの共通項はあるのか?

2019年11月発売された「群像」12月号(講談社刊)に発表された紗倉まなちゃんの新作小説のタイトルは、『ははばなれ』でした。前年に同じ群像で発表された『春、死なん』から約1年。順調に作品をリリースする、優秀な作家と言えるでしょう。

母と子の関係をクローズアップした作品が印象に残るまなちゃんですが、今回の作品もまたタイトル通りに、子どものいない主人公から見える、母を中心に語られていきます。

 

まなちゃんの小説の面白さは、ありふれた日常を演出する、情景描写にさく割合の多さです。そのために、脳内で映像化することを容易にさせます。ときにはしつこいほど丁寧だったり、ドキっとするような乱暴な表現を使ったり。

 

主人公の夫がいじり続けるスマホとそのゲーム内容。何十年ぶりに行った父親の墓参りでの、足元の土や草、桶だったりお供えのワンカップや煙草。主人公が子ども時代に行ったプールでの家族の様子やセリフは、後々まで尾を引く事件になるが、そこも劇的な様子はなく、母親の水着で見えた帝王切開の傷、子どもいることを十二分に引き出す浮き輪の存在。また平和な日常のひとコマを映し出す、父親が平泳ぎで泳ぐ姿など。

 

それぞれの内面では起こっていたかもしれない感情の揺らぎがあれど、生活する場において支障なく影響を与えずに、時間が経過する事実。劇的な出来事は、それを感じた人の中で起こっており、生活空間には影響を与える部分は小さいことを感じさせつつ、起こってしまう未来を示唆させています。

 

情景をじっくり描くことで、描写される人間がどんな位置にいるかを認識させる手法は、映画で説明すると、小津安二郎の映画だったり、山田洋次監督『男はつらいよ』シリーズに共通します。

 

カメラと演技者、作品を観ている人たちに保たれる距離感が、紗倉まなちゃんの小説からは、たっぷりと匂ってくるのです。

日常の毒とは瞬間的な劇薬ではない〜過剰影響とは澱のように溜まった結果

まなちゃんの小説……というか彼女の魅力とは、毒ある描写です。そして小説にも特徴として現れています。これは教科書に載っているような偉大な作家たちの作品ですら、わかりやすいものからわかりづらいものまで、さまざまに毒を放出してますので、小説の業。

 

シェークスピアだろうが、ヘミングウェイだろうが、坂口安吾だろうが、太宰治だろうが、三島由紀夫だろうが、谷崎潤一郎だろうが作家たちは、人間が持つ意識的だったり無意識だったりする毒を描きます。最近だと、Youtubeや映画、マンガなどの視覚メディアの場合、安易な方法をとるとバレて糾弾されますが、小説の場合、意外と気づかない。事前に権威付けられていることが多いから発見しづらいだけかもしれないですが。

 

紗倉まなちゃんには、小説だけでなく、AV女優としても、子どものような無邪気な素直さと、それに相対するような毒を感じます。これって、今どきの人気のあるアイドルなどは絶対に持っていたりするわけで、そういう意味でも、まなちゃんは、AV女優であることよりも、「今の時代に強烈に輝く女子」の要素が強めです。

 

まなちゃんの場合、小説家とAV女優という、一見すると相反する2つの仕事を同居させている彼女がすごいというよりも、人間だからこそ、そのぐらいの振り幅ははあるだろうと自らの存在として表現してくれています。愛らしい毒とは、2019年現在のアイドルが持っている世界観なのは間違いない事実ですから。

 

どこまでも艶かしく生々しい女子の世界を積木する作家

前作『春、死なん』は、老齢に至り妻を喪失している男性の話なので、『最低。』『凹凸』で語られた母娘のテーマではありません。西行法師の歌をモチーフにしたタイトルの短編では、望むようにならなくなる老齢だけで喪失と片付けられないテーマでした。年を経たことでSEXへの興味が喪失するわけでもなくむしろ、より一層感じてしまう事実を、娘や孫娘を混ぜることで、「醜く見られる性への依存」を語っていました。

 

SEXというテーマは、彼女自身はテーマにあります。『ははばなれ』においても、母のことを語るシーンで、そのような感じを匂わす描写や、結婚してから時間を経過して、心の奥底で嫌悪しているかのようなシーンが登場しますから。

 

AV女優とは、世間的に考えると、妙ちくりんな存在であり、「エロいことだけを考えて、人前で語る女」なんて悪しき風評は、何十年経った今でも変わることがないです。

 

だから小説を発表する上で、AV女優・紗倉まなちゃんがSEXを語る理由は無いし、むしろ良くも悪くも、妙な評価がつきまとうはず。しかしながらこれは、作家・紗倉まなが選んだテーマなのです。彼女が小説を紡ぐうえでの根幹になっていると思えるのです。

世の中の普通の人が、エロについて考えていないのかといえば、そんなことはないでしょう。仕事として経験しているからこそ、グレーがあるのか、ファンタジーなのかを語る理由も意味も、権利もある。

 

短絡的に、「丁半どちら」とかで決めがちだったり、「私はMです」みたいに答えちゃうことで、根っこにあるややこしい人間関係を決めがちだし、安易に決める人がほとんどではないでしょうか。

 

年を重ねようとも、エロに対する欲望はある。男女関係が年齢を重ねただけで、友情だけで成立することはない。母の恋愛話が登場することで、若い人間にとって嫌悪する話でも、あらゆるシーンで登場するSEXを淡々とした表現で描写します。

 

老人ホーム関係に勤務する人曰く、「男をとったとらないの痴話喧嘩は、80歳を越えようともありますよ。女性はやはりエネルギッシュです」と語ってまして、老人全員が聖人になるわけじゃないのです。年齢を重ねようとも見た目に綺麗にあろうとするのは、女子に共通していることですし。

 

AV女優・紗倉まなが、艶かしく生々しい女子の世界を、母と娘のどちらも使い、年齢を違えようとも、SEXを語るのは、彼女自身のAV女優としてのリアルを感じさせます。

 

「好き、嫌い」だけで説明するには難しいし、でも確固として存在する事実。AVというリアルを超えた仕事が、まなちゃんが無意識か意識的かはわからないですが、小説を超えようとする作家的なエネルギーに見出せるのです。

 

体感していればすごいとは言いません。そういうこととは違う、紗倉まながAVでも小説でも描写しているのは、艶かしく生々しい女子の姿です。

まとめ〜リアルと非リアルは同じ世界である〜紗倉まなが小説を作る意味

AVもまた業界的な停滞から、賞レースで勢いを煽らざる得ない状況にあり、業界内では、さらなる重きをなしています。しかし、AVとは、映画とは違えども、やはり作品1本1本が、AV女優たちの何かを削り、何かを捨てて作っているとすると、こんなに残酷なことはない。それが市場原理といえども。

 

AVとは、小説とは、「売れなければならない」のです。無償の愛ではまったくないけれど、得られたもの以上に支払う対価は大きいかもしれません。でもAV女優としてリアルでいるために、AV女優はAVじゃない別仕事をするなど、アピールし懸命に生きています。どちらが彼女にとってのリアルなのかなど、「余計なお世話」でしょう。

 

母が自分を出産する際に帝王切開を選んだことが、母を気遣い遊びにいったプールでの普通の家族の会話によって、家族を崩壊させてしまったように感じてしまう描写が、『ははばなれ』にあります。

 

そのときに何かを感じていた小学生時代の主人公は、自分の心地よさを求めて選んだ夫と、幸せな関係のようだけど子作りすることを考えなくなった事実とを、その記憶とオーバーラップさせ自分を模索します。

 

相手を気遣うことも、無邪気に振舞うことも、何かの理由で他人を傷つけることがあり得るのはSNSならずとも、リアルな世界であります。どちらが激しくダメージを受ける意味ではなくて、ただ自分の存在を認められるために、優しさと攻撃が混同するのがリアルな世界です。

 

目の前にある些末な幸せこそ、本当のリアルであり、自分を幸せに向かわせてくれることに、小説を読んでいる間に気づくことがあると思います。

 

小さかろうと大かろうと、実際に傷をつけようとSNSで傷をつけようと、傷は傷です。同じように優しさだけが優しさではない。『ははばなれ』に息をするキャラクターたちもまた、無意識の中で、優しさを感じたり傷ついたりします。

 

AV女優・紗倉まながリアルと非リアルの世界を行き来する存在とするならば、小説家・紗倉まなが描いた『ははばなれ』は、生きている世界を彷徨うことなく進むための指針なのかもしれません。